暇な時間を有効に

剣道師範  佐野 昭三


 気とは形なくして大きな力を発するものだといわれている。
 気力・気塊・元気・勇気もそうであり、電気・空気・大気もみな同じである。すなわち人間の心に宿り、すべてを振起す原動力をなすものと解すべきであろう。
 天狗芸術論に「物の修練によって上手をなすと云いども、その精妙をなすはみな気なり」と書いてあるように、すべの武術芸道にいたるまで、その精妙至極に達するには単なる修練だけでなく、気の発動がなければならない。
 相撲で「八卦よい、残った残った」と行司さんがいう、いかにも運が良くて残ったように聞こえるが、これは「八卦よい」でなくて「発気よい」であるらしい。気の発揚は良いか、どちらも頑張れという激励の叱咤であり、厳密には「発気揚々」というらしい。
 次に気合とは誠に「不立文字」というべきもので簡単に表現できるものではない。強いて剣道的にいえば、心の気、体の気、技の気が競合発揮されたものというべきであろう。
  ○気合とは風を握って その儘に
       足を止めて 鼻によく聞け
  ○気合とは物みな聞くな 寝るな 起きるな
       泣いて 笑った 哺乳児に聞け
 まるで禅問答のような歌で、とても私どもには真意のほどはわからない。気合というものはこんなにもわからないものだという教えが歌の真意であるかもしれない。
 とにかく気力とか、気合とかというものは掌を開いて「これだっ」と人に示されるものでなく、鍛えに鍛え、練りに練って、その中から自然に醸成され、機に臨んで発揚する鋭い力という以外表現の方法ない。気は機に発し、息(イキ)は意気に通ずということも、その間の機微を伝えるものかもしれない。
 剣道で悪い稽古のことを「半気半間の稽古」という。気合も入れず間合もとらず、いい加減の稽古をやることである。その反対に「気塊一杯の稽古」とか「気力の勝負」とかという称賛の言葉がある。基をただせば「気」のある、なしの評価である。
また「合気の稽古をやれ」ということを耳にする。それは初段に村しては初段の技で相村し、三段に村しては三段の心構えでやることで、相手と気を一つにし気分を同じくしてやることである。ややもすれば私どもは自分の力を自分のやり方で誰とでも同じ観念でやる、自分は楽しいかもしれないが相手はちっとも面白くない、剣道は打って反省、打たれて感謝の心と心の通じ合う稽古でなくてはならない。
 持田先生は天下の大先生であったが、この合気の稽古ということを非常に大事にされたという、そして三段の人には三段、五段の人には五段の気持ちで相対すれば誰とお願しても良い稽古になりますよ、と云われ先生ご自身も誰とやられても、常に真剣に、常に合気の稽古をやられたそうである。
 この剣道の気を、また天地に広がる浩然の気でもあり、正大な気もなるものである。藤田東湖は、その詩「正気の歌」の中で「発しては万朶の桜となり、凝りては百錬の鉄となる」とよんでいる全く異質とも思われる桜を日本刀がその発する根元は
同じ「気」であることを教えたものであり、昔からよく「火事場の馬鹿力」といわれるが、その「はっ」と思った時の結集した力は恐るべきものであり、火事が終ってからでは、どんなに力を入れても持てるものでない。
 人間に意と気があれば、まさに意気軒昂であり、文字通り意気ている(生きている)といわれるが、気が中絶すれば気絶である。
 「病は気から」といわれるように気を病むことは病気である。剣道と人生を通じていかに「気」が大事であるか感じられる。